「KAREの歴史についてⅡ」
掲載が前後しています。ご了承ください。(茂木)
----------------------------------------
1月21日
「KAREの歴史についてⅡ」
BIOMASSの2回目の航海は、1983年度に行われましたので、海鷹丸Ⅲでの南極海調査は12年ぶりということになります。参加した教員は山口先生と私、それから極地研の牛尾さんの3人で、院生が7人という小さな研究チーム。ほかにOBで海洋ジャーナリストの永田さんとテレビ番組の制作班でした。この時乗船した院生の内、博士課程の1年だった平譯さんは、極地研の助手を経て、北大の准教授となり、主として北極海の研
究を行っています。修士1年で参加した千葉早苗さんは、オーロラ オーストラリスに乗船したり、AADに滞在してホージーさんの指導を受け、学位取得後は海洋研究開発機構(JAMSTEC)の研究員になりました。もう一人は、何を隠そう、今回乗船中の宮崎(堀本)奈穂先生です。
この航海では、永田さんや、取材チームの希望もあって、交通艇を下して着底氷山の周りで調査を行い、またオーストラリアの国立公園となっている亜南極の島、マコーリー島に寄港してAADの基地を訪問しました。ロイヤルペンギンやオオサマペンギンの営巣地があり、またゾウアザラシの繁殖地です。この航海に乗船した専攻科生の皆さんには、思い出深い経験となったのではないでしょうか。そういえば、この日誌を大学ホームページに掲載してくれている内田先生は、専攻科生として乗船していたのでした。
2000年には、海鷹丸Ⅳが竣工しました。操船訓練や海技科目を中心とした専攻科教育に海洋観測に関する教育を加えて高級海上技術者を養成しようという動きがあり、最新の観測機器を装備することとしました。また、伝統ある南極海の調査・研究をより行いやすいように配慮して、観測ウインチやクレーンなどの装備が整えられました。
当時、極地研では、多くの研究船を、時間をずらして南極海に派遣し、南極海の春から秋の間の季節的な生態系の変化をとらえようとするプロジェクトが進行していました。2001年度には、その一回目が行われ、しらせ、白鳳丸、オーロラ オーストラリス、タンガロア(ニュージーランドの研究船;極地研が傭船)がこれに加わりました。海鷹丸はこの年には間に合いませんでしたが、2002年度の南極海航海から協力することとなりました。海鷹丸南極海航海としては通算9回目(KARE9)です。その後、極地研との共同研究として経費の一部を負担してもらうことになり、2004年度から、3年に2回のペースで南極海に行くことになりました。その一回目(KARE10)は、ケープタウンを出発して昭和基地沖の観測を行ってフリマントルに入港し、フリマントルから南下して再度、南極海の調査を行ってメルボルンに入港でした。何と、第一回の南極地域観測のときに、海鷹丸が行って以来、昭和基地沖の海洋観測が行われたのは48年ぶりということになります。長くなりましたので続きは次回に。どうも年寄りは、昔話となると長くなってしまいます。どうもすみません。写真は、マコーリー島のAAD基地での記念写真です。前列左端は山口先生。その右は私。後列左端は基地の隊長。右端は永田さんです。(石丸)

スポンサーサイト