「KAREの歴史についてⅠ」
1月19日①
観測チームはCPR君に採集をお任せして、昨晩は久々にリラックスしてしまったので、今日はまったりしています。時間ワッチで観測している間は、ゼロヨン(*)は深夜食をとって朝食を食べないのですが、ワッチが解散したので、朝食が皆一緒になり食堂がにぎやかになりました。午後から、チームごとに後片づけをしました。
さて、今回の調査の位置づけについてちょっと考えてみることにします。海鷹丸Ⅱが初めて南極海に行ったのは、日本初の南極観測隊が派遣された1956年度です。地球観測年の前年でした。砕氷船宗谷は、小さな船でしたので、海鷹丸の前甲板にヘリポートを設置し、機材を積んで随伴しました。宗谷が海氷域にいる間は、海鷹丸は沖合で海洋観測をして待機しました。昭和基地の沖合は、今年も「しらせ」が接岸できなかったことでお分かり頂けると思いますが、夏でも海氷で閉ざされていて、海鷹丸は近づくことができないのです。その後、海鷹丸は宗谷に随伴することは無く、独自に3回の南極海の観測や資源調査を行いました。
1973年に竣工した海鷹丸Ⅲも4回の南極海航海を行っています。このうちの2回は国際協同調査であるBIOMASS計画の一環で、ほかには、東大海洋研究所の白鳳丸や水産庁の開洋丸が参加しました。私は、当時海洋研の助手になったばかりでしたが、与えられたテーマの関係から残念ながらBIOMASS計画に参画することはできませんでした。
その後、1989年に東京水産大学のプランクトン研究室の助教授に着任しました。私に求められた役割は練習船を活用した生物海洋学の推進ということだったと思います。
1990年に起きた湾岸戦争では、大量の重油がアラビア湾(ペルシャ湾)に流れ込み環境の悪化が懸念されました。海鷹丸Ⅲは92年から3年次にわたり、この海域の調査を行いました。政府の要請を受けての調査でした。毎年、20名程度の教員、院生とほぼ同数の現地の研究者や研修生を乗せての航海で、もちろん、専攻科も乗船するわけですから、大変な大所帯でした。私は番頭役で、観測機器の調達整備から観測計画のまとめ、外国人乗船者のお世話、船との調整などを行いました。イスラムの戒律に抵触しないようにするのは結構大変でした。それまでに、水産大の3隻の練習船の内、一番小さい青鷹丸(せいようまる)には、毎月乗せていただいていましたが、練習船の多くの方々とは、このとき以来、親しくさせていただくようになりました。なかなか話が進みませんが、もう少し付き合って下さい。
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