「捕鯨船ではありません」
シーシェパードのテロ行為は最近になってようやく糾弾されるようになってきましたが、オーストラリアは基本的に反捕鯨の人たちが多い国です。捕鯨の賛否はともかく、海鷹丸という日本の観測船(もちろん本当は練習船です)がホバートに入港すると、捕鯨船やそれに関与する船である疑いがかけられることがこれまでもしばしばありました。そこで、3年前からタスマニア豪日協会やタスマニア大学の学生さんの協力を得て、海鷹丸の見学会と交流BBQを行ってきました。ホバートは南極海の研究をするためにはもっとも重要な港のひとつであることから、海鷹丸はこれからも頻繁に訪れることになります。であれば、「海鷹丸」をホバート市民に正しく認知してもらうことが重要で、ホバート市民に歓迎される船にならなくてはなりません。地道な交流が少しずつ形になりつつあります。写真はWaterworks Reserveという静かな美しい公園で25日に行われたBBQのときのものです。豪日協会やタスマニア大学の皆さん、ありがとうございます。また来年お会いしましょう。(茂木)


「オーロラ出ました」
1月20日
今日は日曜日。朝食はホットドックでした。久しぶりに晴れて、暴風圏なのにあまり揺れず、甲板にもあまりしぶきがかからなくなったので、清水に漬けてあったRMTネットをウインチで吊って干しました。巨大なテントのようです。

そういえば、観測を始めてから今日までで、日がさしたのは9日の午前中と、16日の係留が終わってから2,3時間、それとアイスオペレーションⅡの日のしばらくの時間だけでした。午後は、専攻科の皆さんに本調査の成果報告会。その後は片付けとバードウオッチングなど。目視観測は南緯60度で終わり、今は趣味の世界です。いつもならアホウドリが船についてくるのに、今回はあまりつきません。
18時にCPRを引き上げ、カセットを変えて再投入しました。
南緯50度から55度はオーロラが良く見えるのでみんな期待しています。昨日は、曇りでダメでしたが、今日は晴れ間が多いので期待が膨らみます。専攻科の諸君は、19時半から掃除で、20時から、巡検といってチョッサー、ボースン、ストーキーとワッチの専攻科生2人が船内を見回ります。それが終わると、ワッチ外の人は飲んでも良いということなので、あちこちに集まって始まりましたが、オーロラが気になるのでスローペースです。23時過ぎに船内が騒がしくなりました。元極地研、現在観測支援センターの特任助教の高澤さんは、オーロラがでたら電話するようにブリッジに頼んで安心して飲んでいるようでした。さすが南極海12回目。ということで、みんなについてコンパスデッキ(ブリッジの上の甲板)に登ると、しばらくしてオーロラが強く輝きました。今回見るのは、今までに見たことがないくらい明るいもので、船中大興奮でした。光が弱くなって、その後で曇ってしまいました。1時半ごろ晴れ間が出たのですが、オーロラは光りませんでした。(石丸)

「KAREの歴史についてⅠ(続き)」
1月19日②
海鷹丸Ⅲの次の南極航海は、1995年度に実施されました。排他的経済水域の設定などにより、遠洋漁業が衰退し大型漁船の士官としての就職口が減ったため、専攻科に進学する人が減り、定員割れが問題となっていました。ある日、船長の春日さんに呼ばれ、学生を増やすためには面白い航海をやらねばならんので、南極海に行くから協力するようにということでした。それまでに、大変お世話になりましたので、もちろん断るわけにはいかないのですが、私には経験がありません。ただ、一緒に呼ばれた山口教授が、海鷹丸の二回のBIOMASS航海に乗船されたということですので心強くはありました。オーストラリア南極局(AAD)のホージーさんは、当時、極地研究所に滞在しており、AADの砕氷船オーロラ オーストラリスで大規模なオキアミ調査をやるので、一部の観測線を違う時期に観測してくれないかとの依頼を受けました。私の南極との関わり、極地研との関わり、そしてホージーさんとの関わりはこの時に始まりました。それまでは、南極海のことなど全く何も知らなかったのです。実は、今もあまり知らないのですが・・・・。
長くなりすぎたので、今日はここまでとさせてください。写真は、南極海に浮かぶ海鷹丸Ⅲです。

「KAREの歴史についてⅠ」
1月19日①
観測チームはCPR君に採集をお任せして、昨晩は久々にリラックスしてしまったので、今日はまったりしています。時間ワッチで観測している間は、ゼロヨン(*)は深夜食をとって朝食を食べないのですが、ワッチが解散したので、朝食が皆一緒になり食堂がにぎやかになりました。午後から、チームごとに後片づけをしました。
さて、今回の調査の位置づけについてちょっと考えてみることにします。海鷹丸Ⅱが初めて南極海に行ったのは、日本初の南極観測隊が派遣された1956年度です。地球観測年の前年でした。砕氷船宗谷は、小さな船でしたので、海鷹丸の前甲板にヘリポートを設置し、機材を積んで随伴しました。宗谷が海氷域にいる間は、海鷹丸は沖合で海洋観測をして待機しました。昭和基地の沖合は、今年も「しらせ」が接岸できなかったことでお分かり頂けると思いますが、夏でも海氷で閉ざされていて、海鷹丸は近づくことができないのです。その後、海鷹丸は宗谷に随伴することは無く、独自に3回の南極海の観測や資源調査を行いました。
1973年に竣工した海鷹丸Ⅲも4回の南極海航海を行っています。このうちの2回は国際協同調査であるBIOMASS計画の一環で、ほかには、東大海洋研究所の白鳳丸や水産庁の開洋丸が参加しました。私は、当時海洋研の助手になったばかりでしたが、与えられたテーマの関係から残念ながらBIOMASS計画に参画することはできませんでした。
その後、1989年に東京水産大学のプランクトン研究室の助教授に着任しました。私に求められた役割は練習船を活用した生物海洋学の推進ということだったと思います。
1990年に起きた湾岸戦争では、大量の重油がアラビア湾(ペルシャ湾)に流れ込み環境の悪化が懸念されました。海鷹丸Ⅲは92年から3年次にわたり、この海域の調査を行いました。政府の要請を受けての調査でした。毎年、20名程度の教員、院生とほぼ同数の現地の研究者や研修生を乗せての航海で、もちろん、専攻科も乗船するわけですから、大変な大所帯でした。私は番頭役で、観測機器の調達整備から観測計画のまとめ、外国人乗船者のお世話、船との調整などを行いました。イスラムの戒律に抵触しないようにするのは結構大変でした。それまでに、水産大の3隻の練習船の内、一番小さい青鷹丸(せいようまる)には、毎月乗せていただいていましたが、練習船の多くの方々とは、このとき以来、親しくさせていただくようになりました。なかなか話が進みませんが、もう少し付き合って下さい。
「アイスオペレーションII」
1月18日午後
ネット祭りが終わった後、大きな氷山の傍らにシフトして、持ち場を離れられる人全員が集合して、南極観測本隊の皆さんの寄せ書きのある旗を囲んで記念写真を撮りました。

その後、2度目のアイスオペレーションを行いました。11日にボートを下して着色氷を採集しましたが、今回も大変重要なミッションです。氷山が割れてできたちいさな氷が風下側に筋状に並んで流れているのを、特殊な採集器具で掬い取るのです。

南極大陸は、降り積もった雪が圧縮されてできた厚い氷に覆われています。この氷が氷河となって長い時間かかって海に滑り落ちてできるのが氷山です。雪に入っていた空気は氷に閉じ込められ、次々と上にできる氷の重さで圧力が高くなっています。氷を水に入れると(ウイスキーのほうが良いのですが)、溶けるときに空気がはじけて音がします。私たちは、これをパチパチ氷と呼んでいて、大事なお土産にしています。話のタネにとてもいいと思いませんか。

これでほとんどの観測が終了です。再び、CPRの登場です。

氷山の傍らから南緯50度ぐらいまで、北上中に1日一度メッシュをまいたカセットを交換しながらサンプリングを続けるのです。今晩は、あちこちで宴が催されるでしょう。パチパチ氷に久々にお目にかかる人も、初めての人も十分楽しんでください。